8月 11

伊藤マンショ像

日南駅の前で信号停車中に撮った。歴史的なことは何も知らなかったので、後に調べてみた。

天正10年(1582)にキリシタン大名(大友宗麟、有馬晴信、大村純忠)等からスペイン国王とローマ教皇に拝謁するために派遣された使節団の主席正使とある。2年半かけてリスボンに到着し、熱狂的歓待を受けて教皇に拝謁したとある。またある文献では信長より教皇へ送られた屏風図もあったと書かれているので、まさに国使だったのだろう。

しかし長崎の港を出発以来8年半後に日本へ帰郷した時は、時代はまさかの秀吉の世となり、禁教令が発せられていた。その後神父として生きて、隠れキリシタンに布教していたとあるが、過酷な人生だっただろう。慶長17年(1612)に43歳で長崎にて病没したとある。

この伊東マンショの像は大分県庁側にも、長崎県大村市にもあるらしい。ちなみに伊東マンショが生まれたのは日向国伊東氏の城の一つで、現在の宮崎県西都市都於郡にもある。もちろん生誕の地の都於郡城址にも像はあるみたいだ。

この写真のある日南市は飫肥藩といって伊東氏が代々治めてきたので、日向国伊東氏は傍系にあたるのだろう。また大友宗麟とも親戚だということで対島津で伊東氏は南は飫肥、北は豊後藩と結んでいたのだろうか。

そんな関係で日南駅前に像が建っているのだろうか。少し謎だがアンテナを張っていればいつか判る日が来るかもしれない。

この像は伊東マンショが飫肥藩の中に遺骨が埋葬されたという伝聞を元に配置されたと書かれているWeb_pageを発見した。

4月 03

二宮尊徳翁

おしつけというか勤勉さを強いられて自由さがなくなるというか、幼い頃からこの像を見ると嫌悪感が走っていた。
そんな自分だったからこそ大成しなかったんだという事実を踏まえつつ、

二宮尊徳翁万歳!!

7月 12

西都原古墳群

友達夫婦と西都原古墳群へと車を走らせた。昨年10月に巡りきれなかった酒元ノ上横穴墓群の屋内展示スペースと県立西都原考古博物館を中心に巡ってみた。元々はこのブログに載せるつもりはなかったが、一緒に行った友達から何故ブログに載っていないのかと指摘を受けた。一応歩かないと記事にはならないのだが、腰を痛めているにも拘らず、少しの距離でも長~く歩いた友達のがんばりに敬意を表し載せることにしよう。

手前の窪んでいる所は玄室につながる通路(横穴)で、奥が遺体が安置されていた玄室にあたる。展示のために上に墳丘があったものを取除いて、皆の目に見えるようにしている状態だ。

この墓は原始的とは言えない。何故なら一度縦に穴を設け(竪坑)、そこから横(水平)方向に掘り進め、遺体を納める部屋(玄室)を設けているからだ。

私達現代の日本人は昭和の30年代までは縦に棺桶が入る程の穴を掘り、そのまま土葬にしていたぐらいだ。原理は火葬の今もそう変わりはない。もちろん古代の一般人にはこのような墓はなかっただろう。この墓は高貴な人々の墓だということだ。

一部年代的に重複はするが、前方後円墳が4~5世紀半ば、円墳が4世紀半ばから6世紀までとすると、酒元ノ上横穴墓群は5~7世紀と、古代の中では比較的新しい墓と言うことになる。有力者・権力者がそのパワーを失っていった時期と一致するのかもしれない。5~7世紀といえば日本史では大和政権が誕生して隆盛を誇り、各地方の豪族と連係関係を強化していく過程である。